「発達障害児支援者から見た"窓際のトットちゃん" これは反戦映画なのか?」

「発達障害児支援者から見た"窓際のトットちゃん"

これは反戦映画なのか?」



【映画の概要】

窓際のトットちゃん (2023)

監督:八鍬新之介

日本映画


原作は1981年に出版された黒柳徹子の自伝的物語。

総発行部数は2500万部を超え、ギネス世界記録に認定されている。(Wikiより)

発売当時、一家に1冊はあったと言っても過言ではないほどで

この本は社会現象になった。


黒柳徹子は今でいうADHDの特性を持った発達障害児だった。

発達障害児支援者の立場からこの映画を解析していく。


【トットちゃんの特性】

注意欠陥多動性障害(ADHD)の特性が目立つけれど

エピソードを分析すると自閉スペクトラム症(ASD)の特性が思ったより多いのに気づく。

おそらくトットちゃんはIQが高い。

そして、英語を習得できたり司会で番組を捌けることから

おそらく入ってくる聴覚情報を自分の言葉でアウトプットする能力が非常に高い。

IQや高い能力で複合的に障害をカバーしていたタイプなのではないかと思う。


【トットちゃんを取り巻く環境】

実家はブルジョワ階級であったため衣食住には困らず、

本人を肯定的に受け入れる両親の心の余裕や懐の深さであるとか

本人に適した教育環境を整える配慮に恵まれたため

二次障害が発生しづらいという幸運に恵まれた。

障害や裕福さとは別に

基本的な生活を上品に営むことができたのは

両親の教養のおかげであり、生まれ落ちた土地の治安の良さもあったであろう。

なによりも、本人がイノセントであり、優しく、

人が生きていく上で必要な基本的な正しさが生来備わっていたことが大きい。

これは発達障害児支援の現場でとても大切な視点である。

障害はあくまで本人に覆いかぶさっているベールのようなもので、

生来持っている本人の性質をしっかりとらえることが支援にとって重要なことであると思う。


残酷だけれど

環境が恵まれていようが

墜ちる子は墜ちる。頑張って支援しても本人が好んで闇の方に向かっていく。

環境はもちろん大事であるけど

生来本人が持っているものが一番核であり、

その良さをどう生かすかが支援者の手腕であると思っている。


そういう意味では、トットちゃんは奇跡の子なのだ。


【映画の中で障害特性が現れている場面】

なんとなく見過ごしてしまうかもしれないエピソードを

あえて意図的に入れていると思われるシーンがそこかしこにある。


原作で有名なものでいうと

・机のふたを授業中ずっと開け閉めしている(ADHDの多動・ASDのこだわり)

・日の丸を紙からはみ出して描く(ASDのこだわり・過集中)

・チンドン屋さんを呼んで学級崩壊させる(ASDのその場にそぐわない行動・こうしたらこうなるという想像の欠如)


特に顕著な特性が校長先生と初めて話す場面にあった。

・挨拶されて挨拶を返さず自分の話をする(ASDの他人の気持ちがわからない・コミュニケーションの不具合)

・思ったことを矢継ぎ早に話す(ADHDの多動・ASDの過集中)

・話に主語がない、脈絡がない(ADHDの注意欠陥)

・4時間話し続ける(ASDの過集中)


他にも

・改札で後ろの人を待たせても自分のしたいことをする(ASDの他人の気持ちがわからない・ルール理解ができない)

・教室に入る前に平均台を通る(ASDのルーティンへのこだわり)

・電車を見つけると一直線に走る(ASDの視野の狭さ)

・やすあきちゃんを木に登らせる(ASDの力の加減ができない)

・はしごを探す時に他の道具で遊んでしまう(ADHDの注意欠陥)

・相撲で男の子を負かしてしまう(ASDの力の加減ができない)

・リヤカーにやすあきちゃんを乗せてオーケストラを見に行く(ASDの力の加減ができない・過集中)


細かく言うともっとあるが、主だった特性を挙げてみた。


トットちゃんが主語なし脈絡なしで4時間話し続けても

内容から察して「大井町線で来たのかい?」と相槌を打てる校長がすごい。

愛のある本物の教育者である。


【校長先生の合理的配慮】

トモエ学園の素晴らしいところはたくさんあるが、

小林校長の合理的配慮を主にピックアップすると

・足が悪くて散歩に億劫なやすあきちゃんに図書館電車を導入

・運動会で体の小さい高橋くんに有利なこいのぼりの競技をさせて1等賞を獲らせる

・トットちゃんと相撲をしようとするやすあきちゃんに腕相撲を提案

などが挙げられる。

もしかしたら共感力の高いトットちゃんをやすあきちゃんに

「仲良しの世話役」で付けたのも

小林校長の策略かもしれない。

(障害児に相性の良い世話役の子をなんとなーく付けるのはありがち)


【窓際のトットちゃんは反戦映画なのか?】

人間賛歌や命の重さを表現することで

結果的に強烈な反戦メッセージが放たれている映画ともいえるが

私が受け取ったメッセージは

「子どもを飢えさせる国家は最底辺国家である」というものだった。

1日に大豆15粒しか食べられず、空腹をまぎらわせるためにトットちゃんが

トモエ学園のお昼の時間に皆で歌った「よく噛めよ」の歌を道端で歌っていると

「こらっ!」と知らない大人に怒鳴られる。

「卑しい歌を歌うな」「おまえたち子どもは銃後を守る国民だ」などと

通りすがりの知らないおじさんに急にわけのわからない説教を垂れられてしまう。

不愉快である。

♪よく噛めよ食べ物を~噛めよ噛めよ食べ物を~

のどこが卑しいのか。怒鳴った男は食堂に入って行った。男は美味しいご飯を食べられるのだ。

服装からして兵隊なのだろう。

理不尽である。


筋が通っていないことを、大人は平気でやる。


子どもは戦うための駒なのである。

その子どもを飢えさせても平気なのだ。使い捨ての物扱いなのだ。

産めよ増やせよで子どもを兵にして戦地で殺して国民を減らして何がしたいのか。

産めよ増やせよで無尽蔵に子どもが大量生産されるとでも思っているのか。

お産は命がけだということが

なぜ、まだ、わからないのか。


日清・日露戦争でたまたま勝ったことの驕りと傲慢さに呑気に呆けていなければ

東南アジアや沖縄や広島長崎は避けられたはずだ。

太平洋戦争でアメリカは余裕しゃくしゃくで日本兵降伏時のジャップランゲージレッスンをしていた。

日本は敵国をろくに調査せず、自国の情報は筒抜けのバレバレで、

竹槍で突くとか特攻とか非現実的で無謀でバカみたいなことを国民に強いた。

それを強いた人間がどれだけ償っても償いきれない尊い命が散っていった。

死ななくても良かった。ひとりひとりの命の尊さと人生が確実に存在したはずだった。


不思議だ。

戦争中に人殺しをした大人たち、

人殺しを指揮した大人たち、

異国の地で酷いことをした大人たち、

憲兵、


人殺しも虐待も拷問も消えることはない事実だ。自分がやったことだ。

時代がそうさせたのではない。

本来人間が持っている残虐性をコントロールしなかった人間が多くいたということだ。

その者たちは、


戦争が終わったら逃げたのか。

身元を隠して生きたのか。


名前を変えて逃げて長生きした者もいると聞く。

その者たちは自分の人生に責任を持ったのか。

痛めつけた人に謝罪をしたのか。

自分の罪をどうやって償ったのか。

軍の指揮官は、国のトップはどう責任をとったのか。


子どもを飢えさせる国は失敗国家である。


だから領土拡大したんだよね。満州国を作ろうとした。

欧米やロシアなどの「他人のものを奪う」方式を模倣した。知恵を使わず。

日本人は頭がいいのだから他にやりようを考え付こうものだろうに。

あ、

教育を充実させて国民が賢くなることは

政府にとって都合が悪いのだった。国民が白痴である方が良いのだった。

体の弱い賢いやすあきちゃんが死ぬ方が国にとって効率的だったのだ。


でもトットちゃんは生きとし生けるものの尊さを知らしめるために

「窓際のトットちゃん」で世界に殴り込みをかけた。


時代のせいとはいえ、加害者になってしまった己に

戦後、残りの人生をかけて責任を全うし罪を償った人はどれだけいるのか。

国防婦人会も、そのへんの一般人も、

戦争に加担したすべての国民に問いたい。


今を生きる私にも自問したい。

私は傍観していないか?政治を監視することを怠っていないか?

自分の頭で考えているか?

正しい情報を取り込んでいるか?

税金の有効な活用の最適解を模索しているか?



私は、この映画を観て

改めて実家にあった原作を読み返し

小林宗作の人生を追った論文を読んでいる。

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