The Killing of a Sacred Deer(2017)

 



The Killing of a Sacred Deer(2017)
邦題:聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア
監督:ヨルゴス・ランティモス
アイルランド・イギリス映画
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『加害者は被害者と同じ罪を負うべきなのか』

主人公のスティーヴンは富も名声も家族の幸福も全て手に入れた心臓外科医だが、訳ありな風の16歳の少年に時々会う時間を作っており、親切に接して食事をする時間や時計などのプレゼントを少年に与えている。
ある日少年が主人公の家に招かれる。
その日から不穏な出来事が起こり始める。

【監督はギリシャ人、元ネタはギリシャ神話】
元ネタはギリシャ神話「アウリスのイピゲネイア」
(前略)ギリシャ軍とその味方の国々の連合軍でトロイア戦争をするぜ!と息巻くメネラーオスとその兄アガメムノーンであったが、港に帆船を待機させていたものの全く風が吹かず、これはどうしたことかと神言の宣いを伺うと、アガメムノーンが女神アルテミスの怒りを買ったことが原因らしく(狩猟の女神アルテミスの存在をさしおいて俺様は狩りの天才やで!と調子をこいた)女神アルテミスの怒りを鎮める方法を乞うと、娘のイーピゲネイアを生贄にしろとのお達し。アガメムノーンはギリシャ軍&援軍の命と娘一人の命を天秤にかける苦渋の選択に迫られる。アガメムノーンは優柔不断を経てイーピゲネイアを生贄に差し出したが娘は鹿に差し替えられた。

この映画は、現在話題作の「哀れなるものたち」の監督でもあるギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス。

【トロッコ問題】
この映画を語る上で議論になるのが「トロッコ問題」。
私はこのトロッコ問題が大嫌い。
思考停止をしているわけではなく、薄っぺらい世間知らずの平和主義を謳いたいわけでもなく、
私の中で答えは「トロッコを脱線させる方法をギリギリまで考える」しかありえなく、
それはこの問題の主題からは外れているのだが
ごめんなさいなのだが私はトロッコを脱線させるという答えしか考えつかない。
※トロッコに自分しか乗っていない前提です
なぜこの映画を語る時トロッコ問題が挙がるのか。
「家族の誰かが死ぬ設定だが生きる方法を得れば自分だけは助かる」
という差し迫った状況に遭遇した時、
この映画の家族はパワーバランスにおいて最も強い者に命乞いをする。
家族愛というファンタジーは身も蓋もなく軽く吹き飛んでしまうが
いびつな家族愛というのもこの映画の一部であり、誰かを差し置いて生き延びたいという思いは人間の本能、人間そのもの、と私は考える。
ファンタジーを剝ぎ取ったリアルなんてどれも大抵こんなものだ。
愛も残酷も無常も希望もないまぜなのが人生であり現実だ。

なぜ私が「トロッコが誰も轢かない方法をギリギリまで考える」の一択なのかというと
1985年の日航機墜落事故の離陸から墜落までを
乗客の視線と飛行機を横からみた視点・後ろから見た視点・飛行機の軌跡の4分割で
ボイスレコーダーと同期させた34分の映像を何度も見たからだ。

【マーティンは神の視点なのか】
私はドローンの映像が好きなのだが
なぜこんなに魅了されるのかと不思議だった。
ドローンの映像は鳥の視点だ。
鳥の視点は俯瞰的視点、神の視点だ。
主人公の息子ボブが倒れるエスカレーターのシーンは
まさに神の視点だった。
では誰が神の視点で見ているのか。
主人公の過失により家族の命を失った人たちだ。
被害者の視点と神の視点が一致するという意味は何か。

正義、とか、真理、とか
わかっていてもどうしようもないもの。
主人公スティーブンは飲酒したまま施術し患者であるマーティンの父を殺したのに
社会的にも法的にも全く罰せられることなく
豪邸に住み家族と幸せに暮らし学会で登壇し誉の極みを尽くしている。

神の視点を持った被害者は行動を起こす。

誰が生贄の鹿になったのか。

【スパゲティ・ボロネーゼという格差】
「アデル、ブルーは熱い色 La vie d'Adele : Chapitres」というフランス映画を観て知ったのだが、スパゲティ・ボロネーゼ、茶色くて具がほとんどないパスタ、というのは低所得層の人々の直喩なのだった。
聖なる鹿殺しのマーティンもアデルブルーは熱い色の主人公アデルも、スパゲティ・ボロネーゼを食べる。しかも食べ方がそっくりだ。お行儀の悪いフォークの持ち方。皿の上でスパゲティをかき回し、口の周りをベチョベチョにするような食べ方。低所得の家庭という逃れられない環境から受け取る食生活を通した育ちの悪さが映し出される。
マーティンは母子家庭で母親は無職だ。主人公スティーヴンの人生とはあまりにもかけ離れている。
マーティンの父を思うと、こんな理不尽があっていいのか?という思いを搔き立てるシーンである。

【救い】
この映画の中で私が一番好きなカットは
親にウソをついてノーヘルでマーティンのバイクの後ろに乗る
主人公の娘キムの顔のアップだ。
この映画、救いがどこにもないけど
キムはしたたかに新しい外の世界に飛び込もうとしているし
自分の気持ちに正直だ。
そこだけが風穴のように空気の動きを感じるのだ。


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