PERFECT BLUE/V síti/aftersun/Já, Olga Hepnarová



【備忘録】

PERFECT BLUE(1997)

邦題:パーフェクトブルー

監督:今 敏 Satoshi Kon

日本映画(OVA)


ダーレン・アロノフスキー監督「ブラックスワン」の元ネタ

という情報だけを頼りに鑑賞。

(元ネタというか、まんまパクっている。リスペクトはあるのか。)


アニメ作品は数多く観ていないけど

今まで観た中で飛びぬけて好みの映画だった。

ストーリーの中にドラマ撮影のストーリーが展開する入れ子構造。

場面の切り替わりの芸術的美しさ。

夢と現(うつつ)の境目がなくなっていくシーンの畳みかけ。

自分が「他者が望む自分」に追い詰められていくサイコホラー展開。

鏡やガラスの視覚的効果を使った映像表現。

どれもが素晴らしい。


【ルミちゃんはわりとまとも説】

アイドルが女優に転身するとき、

悪い芸能界は「アイドルからの脱皮」などと尤もな宣伝文句をつけながら

女性を脱がそうとする。ポルノとして消費するために。

脱がすために「体当たりの演技」などと綺麗ごとを言う。

汚れ仕事を真面目に頑張る未麻をモニターで見ながら

ルミちゃんはぼろぼろ泣いていたたまれず立ち去ってしまう。

ルミちゃんの感覚はマネージャーとしても女性としてもいたってまともなのだ。

ファンもテレビ関係者も芸能事務所も

映画に出てくるほとんどの男性たちは

未麻の心の負担など一切考えていない。

アイドルグループのメンバーも未麻を心配していない。


映画公開が1998年、原作が1991年ということで

当時の空気感はこんなものだったなと回想できる。

令和の今であればコンプラ的にアウトである。

令和の今なら芸能人が個人のSNSでつぶやけば

芸能界のセクハラ体制は大問題になり社会的に糾弾される。

未麻は自己犠牲を払って既存のシステムの中でのし上がろうとしており

マネージャーのルミちゃんはそれに反対していたのだが、

ルミちゃんは自身の意図とは別に、結果的にではあるが、

悪しき芸能界を構築する関係者たちに鉄槌を下したことになる。


問題の撮影シーンはおそらく最初の約束と違って肌が露出してしまった。

写真集の撮影も然り。

未麻は乖離が始まるくらい傷つくが、

ひとつひとつ乗り越えられる程に肝は据わっていた。

耐えられなかったのはルミちゃんの方だった。


【90年代あるある】

90年代は宮沢りえ「サンタフェ」の爆発的成功を皮切りに

ヘアヌード写真集が次から次へと出版されていた。

また、90年代半ばからインターネットが一般に普及しはじめ、

最初に開くウェブブラウザはGoogleでもSafariでもなく

Netscape Navigatorであった。

主人公の未麻が買ったパソコン(たぶんアップル)で閲覧するのが

Netscape Navigatorで、ああ懐かしい…と目を細めてしまった。

HPのあのかんじも懐かしい。

あと、未麻が抜けたアイドルグループCHAMの新曲

「一人でも平気」がリアルな、

ハウスミュージックに影響された当時のアイドルサウンドだった。

Rick Astleyの「Never Gonna Give You Up」的な。

Black Boxの「Everybody Everybody」的な。

ハウスにシフトチェンジしたから売れてチャートインしたのかも。


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V síti(2020)

邦題:SNS 少女たちの10日間

監督:Barbora Chalupová, Vít Klusák

チェコ映画(ドキュメンタリー)


【超・閲覧注意】

このドキュメンタリーを観た後のために

あたたかいコーヒーやミルク、

甘いチョコレートやケーキ、

ペットのモフモフ、ぬいぐるみでも抱き枕でもいい、

自分が安全であることを認識できる何か

安心できる何かを準備することを強くお勧めする。


【超キモイきしょい最低最悪なトラウマを植え付けてくる奴ら】

12歳設定の女優のSNSアカウントに

彼女らの父や祖父世代のケダモノが

裸の写真を送れと言ってきたり

好奇心で送ったらネットに拡散するぞと脅迫したり、実際に拡散したり

完全にイリーガルな未成年ポルノを送りつけたりと

おぞましい現実世界が繰り広げられる。

恐ろしいことに、彼らはペドフィリア(小児性愛者)ではないということ。

子どもと接する職業に従事する者もいる。

性加害者が日常生活に溶け込んでいる恐怖。


私はパソコンの画面でこのドキュメンタリーを観たので

まるで自分が被害に遭っているような錯覚があった。

女優さんも制作スタッフもかなりのトラウマを受けたに違いない。


比喩ではなく実際に両腕の鳥肌が立ちっぱなしであった。

未成年、特に善悪の判断がつきにくい小学生・中学生くらいの子どもたちに

自分の欲望をぶつけてくる性加害者をみるにつけ

「そんな奴らにだけ感染する致死必至なウィルスが出現しますように」と願ってしまう。


かなりキツイ作品ではあるが

全人類に見て欲しい作品でもある。


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aftersun(2022)

邦題:aftersun/アフターサン

監督:Charlotte Wells

イギリス・アメリカ映画


今年観た映画マイベスト暫定1位作品。

宝物のような悲しい物語。


31歳の父と11歳の娘。

20歳で若くして父になったのだな。

大人になりきれない若いお父さんと

大人の階段を上り始めた娘が

夏休みにトルコの観光地に旅行をする。

この「ひなびた観光地」と「フィルムカメラのような映像」がマッチしている。

お父さんの行動に胸が苦しくなるのと同時に

画面から溢れ出る優しさや郷愁にずっと浸っていたい思いもする。

若い父と思春期に入った娘の2人旅行というだけでも

胸にぐんと来るのだが

お父さんはどこか不穏で、今にも消えてしまいそうな危うさを漂わせる。

ラストのシーンで全てわかってしまうのだが

父がどうなったか、を、ダンスシーンのフラッシュで表現するという、

今までに見たことがない、悲しくてスタイリッシュな映像表現に痺れてしまった。

また曲が、素晴らしく良い。

父娘ふたりのダンスシーン「Under Pressure」QueenとDavid Bowie

歌詞が、涙が止まらない。This is our last dance…


40歳の自分なんて想像できないよ!と

キレ気味に話す若いお父さん…

その気持ちわかるよ

人生うまくいかないことばかりだよ

生きるって惰性なんだよ

人生に意味なんて持たなくていい

生まれてしまったからしかたなく生きるだけだよ

…と背中をさすってあげたい。

でもあなたにはかわいい優しい娘がいる

今は恋とか性に目覚め始めているけど

もう少しして大人になったらあなたの力になってくれるよ

あと10年頑張って生きて!と言いたい。


全然関係ないけど

ひなびたホテルで、地元の歌手やバンドがステージに上がっているのを見て

「私もやりたい…」と思ってしまった。

衣食住の住はホテルの1室を借りて

昼間はビーチでごろごろして

食はまかないで

年間契約で雇われて観光客相手にDJをするって

最高じゃん…

マカレナかけて老夫婦がダンスするの最高じゃん…


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Já, Olga Hepnarová(2016)

邦題:私、オルガ・ヘプナロヴァー

監督:Tomas Weinreb, Petr Kazda

チェコ映画


ずっと前から観たかった映画がアマプラに登場。


【あの事件と酷似】

秋葉原の通り魔事件の加藤君と全く同じだ。

こんなにそっくりな事件が1973年にチェコであったなんて驚きだ。

家族からの虐待、社会からの孤立、ルサンチマン、

歯車が少しずつ少しずつ狂っていく主人公の人生。

月並みだが、どこかで主人公を救えたのではないかと考える。

実際に被害者がいるので犯罪を擁護できないが

「一線を越える」ことの恐ろしさをまざまざと知る映画である。


【一線を越えるということ】

主人公は誕生日に何が欲しいと母親に尋ねられ

「家を出たい」と申し出る。

周りになにもない物置のような小さな小屋が

彼女の初めての居場所だった。

わかる。

誰も通らないような世間から外れた場所に

身を置くことで安心を覚えるあの感じ。

私も、ビルの非常階段の踊り場とか

屋上に続く手前の階段スペースとか妙に落ち着いて

よく仕事の休憩時間に座ってぼーっとしていた。

自分自身にも将来にも絶望していたし

世間も恨んだけど

犯罪に走るといった一線を越えようとは思わなかった。

なぜ越えなかったか。

ギリギリまで追い詰められた時、

他殺でなく自殺を思い浮かべたからだ。


オルガ・ヘプナロヴァーは自殺ではなく他殺を選択した。

自殺より他殺の方が「価値がある」と判断した。

彼女の人生は社会からずっと苛めを受け続けていたので

社会に復讐しようとしたのだった。

諦めに怒りが勝利したその瞬間から

彼女は計画し、準備し、行動に移した。


私が加藤君やオルガにならなかった理由を考えてみる。

時代的環境的要因など色々あったけど

食べるに困るほどの貧困に陥らなかったこと。

社会に出てからはいつも誰かが味方してくれたこと。

理性とか良識がしっかり働くぐらいには人生大丈夫だったこと。

他害なんてしたらその人の人生が壊れるくらいの想像力はあったこと。

そもそも人を傷つけるなんて恐ろしいことは到底できない。

あの「一線を越える」感じとはどのような感覚なのだろう。


死にたいと思っても、本能が生きたがってしまって

結局冷静になり「おなかすいたからなんか食べよ」となる。

「なんとかなるし」と切り替えてしまう。

「もう考えるのに疲れた」と苦しむことすら諦めてしまう。

馬鹿みたいだけどそうやって無意識に死を回避していたのだと思う。



 

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